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灰石の文化(その三)

公開日 2019年2月7日

更新日 2019年2月28日

灰石の文化(その三)の写真

地域dt>
その他
名称
灰石の文化(その三)(はいしのぶんか)
所在
 
備考
平成3年12月調べ
説明
皆さんが家の近所を散歩することがありましたら、ちょっと周囲を良く観察してみてください。きっとどこかに、灰石で造られた何かが目にかかるはずです。
その「何か」は、石垣であったり塀であったり、あるいは溝の枠やその蓋、場所によっては小屋の壁であったりするかもしれません。このように臼杵では私たちの生活の身近な場所で、様々な用途に使われているのです。
灰石がこのように、多方面にわたって利用されるようになったのは、はっきりしたことはわかりませんが、おそらく江戸時代になってからのことでしょう。近世城郭建造技術の進歩に伴って石垣築造をはじめとする石材加工、石組みの技術も江戸時代に飛躍的な成長を見せますが、臼杵もその例外ではないようです。今もなお、岩肌に直接灰石をはめ込んで組むという特殊な技法を用いた臼杵城時鐘櫓下の石垣や、武家屋敷の長屋門などに見られる、灰石の切石を二、三段に積んで、建物の基礎部を高く造る臼杵独特の技法を用いた建築物などにその好例を見ることができます。そして何といってもその白眉は、石拱橋(せっきょうきょう)と呼ばれる石製のアーチ橋につきると言われています。
石拱橋は切石をアーチ状に組み上げ、切石どうしが力のバランスをうまく保つことによって建つ石橋なのですが、その建造は、石の切り方、組み方一つ間違うとバランスが崩れ、橋の崩壊をまねくため、非常に高度な技術を要するものです。十九世紀初め、熊本地方でこの技術は確立されていますが、これを習得したと思われる、下ノ江大野の石工棟梁井沢織平は、文政七年(1824)、当時臼杵藩領であった柳井瀬(三重、野津の町境)で、虹澗橋(県有形文化財の石拱橋)を完成させています。これは建造当時、日本最大級の石拱橋であったそうです。そしてそれから約170年後の今日もなお現役で、大型車両が通過してもびくともしない堅牢さと、その名のごとく、谷にかかる虹のようなすばらしい構成美を見せています。それはまた長い年月をかけて灰石を使いこなし、あらたに精神の息吹を吹き込もうとした古墳時代から続く臼杵の石工たちの努力と工夫の証であるかのようにも感じられます。そして、ふだん私たちが気づかない場所にひっそりとこうした証人たちがいることもまた、忘れてはならない事実です。
臼杵人が灰石と共に歩んできて約1600年。現在では大型機械も導入して、随分技術も進歩しています。しかし、古い物を見直したとき、今にはない何かが見えてくるのかもしれません。それは灰石を身近なものに近づけた先人のたくましさであり、その過程を表す“文化”という言葉の重みのような気がします。
  • 臼杵市役所臼杵庁舎TEL:0972-63-1111(代表)
  • 臼杵市役所野津庁舎TEL:0974-32-2220(代表)

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