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櫨の並木

公開日 2019年2月7日

更新日 2019年2月28日

 
地域
その他
名称
櫨の並木(はぜのなみき)
所在
 
備考
平成2年7月調べ
説明
昭和40年代に伐られてしまったとのことですが、かつて諏訪の諏訪神社下から渡し場に向かう道添いに、数十本もの櫨の並木があったことを憶えておいでの方もいらっしゃるかと思います。
道添いの並木といえば、すぐに頭に浮かぶのは杉や桜などですが、どうして触ると肌がかぶれる櫨の木が植えられていたのでしょうか。それについては、江戸時代末期に当時の臼杵藩が行った“天保の改革”に関わりがあるとされています。
天保の改革とは、天保二年(1831)から文久二年(1862)にかけて臼杵藩が家老の村瀬庄兵衛を中心として取り組んだ、藩の財政再建事業のことです。
臼杵藩では、十八世紀のはじめから続く赤字財政の埋め合わせのために、江戸や大阪の商人から借金を重ねる状態が続いていました。記録によると、この借金が積もりに積もって、天保元年(1830)には二十六万両という、臼杵藩の年収の八倍以上もの額にのぼっていたとあります。
庄兵衛は、これらの借金を整理し、財政を立て直すため、藩の収入を増やして支出を抑制するという意味の「量入、制出(いるをはかりいずるをせいす)」をモットーに様々な政策の実行に着手しました。
その政策の一つが、商品作物生産の奨励です。これには、紙の原料となる楮や畳表の材料である七島藺(しちとうい)などの増産をはかり、藩の特産品として大阪などの大消費地へ売り出すことによって、現金収入を増やそうとする意図があったようです。また、当時の江戸や大阪ではろうそくの需要が大きかったとのことで、ろうそくの原料となる櫨を藩内の空地に植えさせたとの記録があります。諏訪の櫨の並木も、このときに植えられたものだといわれています。
今に伝わる庄兵衛の雑記帳には、植え付けた櫨の木の本数から割り出した五年後、十年後の実の収穫量と、それによる売上の予想額などが、こと細かに記されているとのことです。庄兵衛の緻密な人柄がうかがわれます。
こうした増産政策や、厳しい支出の切りつめなどによって藩の財政状態は徐々に持ち直し始めました。そして嘉永二年(1849)ごろまでには借金の大半を整理することができたため、臼杵藩の天保の改革は一応の成功を収めたと評価されています。
この櫨の実が、庄兵衛の計算通りの効果をもたらしたかどうかは残念ながら記録にありませんが、こうした一つ一つの小さな工夫や努力が改革の成功をもたらしたことには違いないようです。そしてこの事実は、現代の繁栄が先人の努力と苦労の積み重ねであることを教えてくれているようです。
  • 臼杵市役所臼杵庁舎TEL:0972-63-1111(代表)
  • 臼杵市役所野津庁舎TEL:0974-32-2220(代表)

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