田口石見守の墓

公開日 2014年1月1日

田口石見守の墓
地域
海辺地域
名称
田口石見守の墓(たぐちいわみのかみのはか)
所在
臼杵市諏訪
備考
昭和62年4月調べ
説明
市内諏訪の平岡区には、戦国時代の武士であった田口石見守と奥方、更にその侍女達の墓所があります。石見守は、大友家の家臣であった父親、蔵人佐(くらんどのすけ)の二男として生まれました。彼の生い立ちについては、記録が無いため定かではありませんが、一族の中でも非業の最期を遂げた武士の一人として知られています。
彼が数奇な運命をたどるようになった原因に、大友家の「二階崩れの変」が関係しています。彼の父親は、大友氏第二十代義鑑の有力家臣(家老)として仕え、義鑑の嫡子である義鎮(後の宗麟)を大友家の家督継承者として擁護していました。しかし現当主の義鑑は、日頃より粗暴な振る舞いの多い義鎮を疎み、お気に入りの側室が生んだ幼少ながらも賢い塩市丸をかわいがっていました。そしてある時、義鑑は義鎮が別府の浜脇へ湯治に行った留守に、家老の田口蔵人佐をはじめ、斉藤播磨守、小佐井大和守、津久見美作守らを招き、「義鎮を廃嫡して、塩市丸に家督を継がせようと思う」と四人に諮ったところ、四人は大いに反対し退席してしまいました。義鑑は怒って、斉藤・小佐井を殺し、続いて田口・津久見を討ち取ろうとしましたが、これを知った彼らは逆に、大友館の二階で寝ていた主君義鑑を急襲し、重傷を負わせました。これが世に言う、天文十九年(1550)二月に起きた「大友ニ階崩れの変」です。義鑑はこのとき受けた傷がもとで二日後に亡くなり、その後義鎮が第二十一代の家督を継いでいます。家督相続後、義鎮はただちに田口・津久見の一族を主君を討ったかどで討伐しています。
義鎮に家督を継がせるために義鑑を討った両氏ですが、たとえ理由はどうであれ、当時の世としては、主君を討ったものを家臣としてそのまま仕えさせておくことは他の家臣に対して示しがつかないというのが、討伐の理由だったのではないでしょうか。
この変によって石見守にも追っ手がかけられました。彼は住居のあった田の口から桑尾の谷に隠れながら逃げますが、最後は諏訪山で討死してしまいます。彼の兄弟のうち、弟与一郎は大泊で、姉松枝は風成でそれぞれ討死しています。
石見守と奥方、そして侍女達のお墓は、諏訪明神の裏から70~80m離れた山の中にひっそりと建てられています。これらの墓は、稲葉一通公によって建てられたものです。田の口には、氏寺としての阿弥陀堂が、また桑尾の通称権現谷には、隠れ穴が残っています。隠れ穴の脇には、歴史を感じさせる直径が1m以上もあるような椎の大木が葉を茂らせています。
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