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殿様道と茶屋峠その三

公開日 2019年2月6日

更新日 2019年2月28日

 
地域
中臼杵・南津留地域
名称
殿様道と茶屋峠その三(とのさまみちとちゃとうげ)
所在
 
備考
平成5年5月調べ
説明
茶屋峠遺跡で発掘された建物跡が、その規模や峠にほど近い道の脇にあるという立地条件、出土した江戸末期の陶磁器類、そして地元での言い伝えなどから、証明する記録はまだ見つかっていないものの、江戸時代の終わりごろに営まれていた茶店であることはほぼ間違いないと思われます。
ではこの当時の茶店とは一体どのようなものであったのでしょうか。江戸時代に書かれた「古史?」からその様子を探ってみましょう。
弘化三年(1846)、臼杵藩は「出店ニ付大庄屋并役人共ヘ申聞事」という、茶店を営んでいたり、これから営もうとする人達に対しての御触を出しています。これには「出店(茶店)では旅に必要な草鞋や松明は売ってもよい」「藩内の者といえども、宿泊させてはいけない」「酒宴を行ってはいけない」「寿司や肴(酒肴的な料理)を出してはいけない」など、いくつかの規定が書かれてあります。これらから、茶店はあくまでも旅人の便利のためにあるもので、それ以上の用途に使われるべきではないとする藩の意図がうかがえます。
臼杵藩では江戸時代のはじめから領民や藩士に対してぜいたくを戒めるように御触を出していますが、茶店に対しての規制は今のところこれだけのようです。その背景には、天保二年(1831)から始まった、質素倹約と人材育成、商品作物の増産によって、藩の赤字財政を立て直す「天保の改革」の途中であったことが関係しているのかもしれません。人里離れたところで集会を持つことは昔から治安上の問題で禁じられていましたが、これに加えて藩の目の届きにくい場所で“ぜいたく”が行われ、改革の妨げになることを心配しての事、とも考えられます。
また、「古史捷」には、文政元年(1818)から弘化四年(1847)にかけて、田尻から大分市広内へと抜ける府内城路の白木峠に茶店を営みたいと藩に願い出たものがあることや、文化二年(1805)に下末広村の者が沓場(茶店)を開きたいと願い出たという記事が残されています。また茶屋峠の茶店も、これとほぼ同時期にあたることが考えられています。このように、西暦一八〇〇年以降、臼杵では茶店を営もうとするものが増えてきたことがうかがえるのです。弘化三年の御触が出されたのも、こうした事情があってのこととも考えられます。
茶店が増えるということは、それだけ道行く人が増えたことの顕れとも言えるでしょう。物資の流通が活発となり、刻々と変化してゆく時代の流れに対応し、また、その流れを造っていこうとする人々が動き始めた時期であったからなのでしょうか。
さまざまな思いは胸にあれど、長くきつい坂道を行く人々に峠の茶店の一杯のお茶は、ささやかながらも安らぎを与えるものであり、これから先の道往きへの力を注ぐものであったのでしょう。「人の一生は遠き道を行くが如し。急ぐべからず。」という言葉とともに。
  • 臼杵市役所臼杵庁舎TEL:0972-63-1111(代表)
  • 臼杵市役所野津庁舎TEL:0974-32-2220(代表)

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