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野村台遺跡の環濠

公開日 2019年2月6日

更新日 2019年2月28日

 
地域
下南地域
名称
野村台遺跡の環濠(のむらだいちのふたつのはかいし)
所在
 
備考
平成6年10月調べ
説明
臼杵市内に数多く分布する阿蘇溶結凝灰岩を基盤とする台地上は、古く縄文時代の昔から人々の居住地となっています。平に続く堅く水はけの良い地盤は、竪穴式住居(地面に直径2~10m、深さ50cm前後の穴を掘り、その上に屋根を組んだ家)や掘立柱建物(地面に直接柱を立てて組んだ建物)など、地面をそのまま床として使う原始時代から中世の建物を建てるのに適していました。このため、臼杵の場合ですとこの時代の集落はほとんど台地の上に存在していたわけです。
臼杵川の下流域から中流域に沿って東西に長く広がる野村台地は、こうした臼杵の台地の中でも、家野台地や戸室台地などと共に大きな台地の一つです。野村台地を歩くと、現在でも縄文時代から近代に至るまでの土器や陶磁器・石器などを拾うことができますが、これはその時代の人々が、これはその時代の人々が、八千年以上にわたって野村台地に住んでいた証なのです。
野村台地上では、平成四年から発掘調査が行われていますが、平成6年八月からはじまった飛車丸(ひしゃまる)地区(台地の西端部)の調査で、昔の人の生活の様子を物語る、大変貴重な遺構が発見されました。この遺構は今から約千八百年前の弥生時代後期に造られたと考えられる環濠と呼ばれる幅約1.5mの濠(ほり)の一部です。
環濠とは、日本では今から約二千三百年程前の弥生時代前期から現れる、一つの集落の周りを取り巻く濠のことです。環濠が造られた目的については様々な説がありますが、その本来の役目は、外敵から自分達の集落を守る防衛施設であるという説が最も有力です。野村台遺跡の環濠の断面は、この時代の環濠が全国的にそうであるようにV字形をしています。そしてその深さも当時は約1.5mくらいはあったと思われ、いったんこの中に落ちると、身動きもとれず、集落の中へ入ろうとする外敵を防ぐには効果的な施設であったと考えられます。
「倭国乱れ、相攻伐すること年を歴し・・・」と、三世紀に中国で書かれた「魏書東夷伝倭人条」(一般には魏志倭人伝))には、弥生時代に日本の中で内戦が長く絶えない時期があったと記録されていますが、こうした緊張状態の中で日本のあちこちで環濠に囲まれた、環濠集落と呼ばれる集落が誕生したわけです。
全国的にこのような環濠集落は約千七百年前の古墳時代初頭(三世紀後半)ごろには消滅してしまうようです。野村台遺跡の環濠も、どうやらこの時期に一気に埋められていることが、濠の埋め方や、埋土の中の土器の出土状況から考えられます。これらの事例は、三世紀後半になって日本の状勢が安定してきたため戦乱がなくなり、従って集落を防衛する濠も必要がなくなった顕れといわれています。この頃には臼杵地方にも、外敵の侵入に神経を尖らす緊張状態から開放される平和の時がやってきたのでしょう。発掘調査を進める時、喜びにあふれた表情でこの濠を埋める臼杵の古人の様子が、ふと思い起こされます。
しかしながら今なお、世界のあちこちの、集落の周りを濠や柵、そして機関銃座で防衛する村の状況をニュースで目にすることがあります。世界中の町や村から“環濠”がなくなるのはいつの日のことでしょうか。
  • 臼杵市役所臼杵庁舎TEL:0972-63-1111(代表)
  • 臼杵市役所野津庁舎TEL:0974-32-2220(代表)

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