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伝要福寺跡

公開日 2019年2月6日

更新日 2019年2月28日

 
地域
臼杵・南部地域
名称
伝要福寺跡(でんようふくじあと)
所在
鎮南山山庵
備考
昭和63年5月調べ
説明
諏訪の仏舎利塔や鎮南山などの高い所から市内を一望すると、まわりよりひときわ高い甍(瓦葺きの屋根)が、たくさんならんでいるのが目に付きます。これはみなお寺の建物なのです。臼杵は小さなまちですが、その中には実に三十数ヶ寺の新旧寺院があります。しかもその半数は旧城下に集まっています。
お寺が城下に集中して建てられたという要因の一つに当時(江戸時代)の社会情勢による影響が考えられます。城下に建てられた寺院のうち、一部を除く部分は稲葉氏が臼杵へ入府した慶長五年(一六〇〇)から寛永年間にかけて建てられ、多くが要衝の地を占めています。
この時期は、一応徳川氏が国内を治めるようになったとはいえ、まだ世の中は不安定で、又いつ戦が始まるか判らない時でした。そこで山門や高い土塀で囲まれた寺院が緊急時における砦のような役割を果たすことができるように配慮したものと思われます。これら今日まで続いている寺院のほかに、寺院跡といわれている所がかなりあります。それらの寺の大部分は稲葉氏の入府以前に滅びてしまったものです。
この中の一つに要福寺跡と伝えられている場所があります。そこは鎮南山の本峰から直線距離にして三百メートルほど西に行った所です。ちょうど今の山庵があるあたりです。現在では、往時の寺の様子を知るよしもありませんが、言い伝えや古い記録から想像すると比較的大きな山岳寺院であったようです。ご存知のように山庵は多福寺の住職であった賢巌禅師が庵を結んだところです。
「臼陽寺社考略記」によると、賢巌禅師は要福寺の跡を再興してここに住んだと記されています。また要福寺について、その開基の時期はわからないが、天正十五年(一五八七)に島津軍が臼杵へ侵攻した際、時の住職が傷ついた島津軍の若い兵士に哀れみをかけ、ひそかにかくまい治療したことから、大友宗麟の怒りをかい、寺は焼却されてしまったとあります。この寺は小河内、野村、田井ヶ迫三か村の檀那寺であったとも記しています。更にこの地から「応永二十七年(一四二〇)」の銘が刻まれた古い石塔が出土したとあり、少なくとも十五世紀の初めころにはこの要福寺は存在していたと見ることができます。 
若葉が萌えるこの季節、自然に親しみながら古跡を訪ね往時を偲ぶのも一興かと思います。
  • 臼杵市役所臼杵庁舎TEL:0972-63-1111(代表)
  • 臼杵市役所野津庁舎TEL:0974-32-2220(代表)

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